私の父は数年前に他界しました。
そんな父は、昔、まだ子供の時にちょっとした事件に遭遇しました。
それは、ある日、突然、父の学友が、
殺されてしまったんです。
父はとても心配してその子達を探しに行きました。
夏の暑い日、天気のいい1日が始まった午前11時。
その子達は無残にも焼き殺されてしまって、
中には黒焦げで誰かわからない人もいたようです。
最近はあまり語られなくなった事件です。
別に昔のことなので、今、わざわざネガティブなことを
思い出させなくてもいいじゃないか、という風潮でしょう。
死者はたったの14万人です。
歴史の上の話では、たった1発の爆弾のお話です。
死んだのは14万人です。
でも、14万人、という人はいません。
14万人のひとりひとりに命があり、人生があり家族がありました。
一般市民の目線からしたら、
そんなもんたまったもんじゃないですよ。
風化でしょうか。
でも、桶狭間でも関ヶ原でもなく、
私の父の時代の話です。
世の中、とかく、「戦争は絶対だめ、平和が一番」
という風潮もありますが、
戦争にだって、ルールが設けられています。
民間人への爆撃は戦争でだって許されるものではないんです。
よく、日本が停戦に応じなかったから原爆を落とすことで
無益な戦争を終結できた、と言われますが、
原爆が戦争の終結を早めた訳でないという説が近年有力になってきています。
そういう話はさておき、父は原爆投下の後、
友達を探しに爆心地に入りました。
祖父も爆心地に入り、遺体を埋葬するお手伝いをしたと聞きます。
そして、その時の話は、父は生涯、一言も口にすること無く
この世を去りました。
何が正義なのか私にはわからない。
正義を振りかざすために、広島で20万人、長崎で14万人の人が、
殺戮されなければならなかったのか。
先日、映画で「この世界の片隅に」が大ヒットして、
いろんな人が泣いた感動したと言ってました。
私も映画化される前に原作は読んでいたのですが、
日本中が感動の嵐で包まれる中、
なんとなく白けた気持ちになっていました。
それって、ブームになってしまって、いいのか?と。
原爆投下以降、父はずっと生きていました。
原爆投下以降、背中にケロイドを背負って苦しんでる人はずっと生きていました。
原爆投下以降、未だに亡くした家族について涙する人はずっと生きていました。
映画が忘れられ、次のヒット作に世間が胸踊らせている時も、
心に身体に傷を追った人たちは、ずっと生きていくのです。
戦争でもなく、ましてや正義でもない、
世界でも稀に見る大虐殺を受けた日本。
それを某国のようにお金目当てで騒ぎ立てることを良しとはしません。
でも、自国の人たちが忘れ去るには、
ちょっと早すぎはしないでしょうか。
そして、日本が立ち直って、豊かになった今、
世界に向けてその悲しみや虚しさを発信しなければ、
亡くなった人たちは犬死ではないでしょうか。
大国の顔色を伺って、右に左に風を見ることは致し方ないとしても、
ここは絶対に譲れない、と、自国の立ち位置を保つ必要が
あるのではないでしょうか。
人は二度死ぬと言われています。
一つは、肉体が滅びる時。
一つは、人々の記憶から忘れ去られる時。
私は、父の愛した街の人達を、
二度殺すことはしたくないと思うのです。
また、そうした綺麗事を言っておきながら、
父自身の最後は魂を込めて自宅で看取りをして悔いはないけれど、
父の受けた仕打ちに対し、平和運動など何の参加もせず、
漫然と生きてしまった事には、
未だに悔いが残るのです。
もちろん、完全思考停止の「戦争絶対反対」的な運動に参加する
ことは死んでもありません。
でも、私自身も、あまりにも無知であります。
毎年、この日にサイレンを聞きながら、自分の愚かさと
父の無念さを思って涙が出ます。
長崎の原爆、というのは、もはや教科書の1ページなのかもしれません。
でも、同時に、私の父があの日、友達を探して、
街を彷徨って、地獄のような風景を見た、
ということは、なんとなく思い出して欲しいと思います。
父の名前は記念碑の下の原爆戦没者名簿のマイクロフィルムに刻まれて、
保管されています。
原爆資料館も是非訪れてください。
貴重な体験者の談話のフィルムを熱心に外国人の方が鑑賞しています。
オバマ元大統領の折り鶴がなくたって、
是非、自分の国に起こった出来事を知ってください。
正直なところ、近年、長崎の原爆資料館は、
悲惨な展示物が少なくなり、
やれ何キロとかやれエネルギーを数字で示すととか、
データ的な展示に変わってきています。
そして、正直なところ、
そんな数字やデータに人の無念が、苦しさが、残酷さが
どれだけ示されるんだ、馬鹿野郎!
と思うところもあります。
毎年、こうした思いを自分でもウザいなと思いながらも、
書くことも自分にしかできないことかもしれないと
書いています。
読んでいただきありがとうございます。
尚、私にはアメリカにも友人はいますが、そのルーツに関して
繰り言を言うつもりではありません。
むしろ、そうした悲惨な歴史を共有したことにより、
今後はそうしたことがないよう、今後は互いを尊重していきたいと思います。
良いも悪いもない、ただ、あった、ということなのです。
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そんな父は、昔、まだ子供の時にちょっとした事件に遭遇しました。
それは、ある日、突然、父の学友が、
殺されてしまったんです。
父はとても心配してその子達を探しに行きました。
夏の暑い日、天気のいい1日が始まった午前11時。
その子達は無残にも焼き殺されてしまって、
中には黒焦げで誰かわからない人もいたようです。
最近はあまり語られなくなった事件です。
別に昔のことなので、今、わざわざネガティブなことを
思い出させなくてもいいじゃないか、という風潮でしょう。
死者はたったの14万人です。
歴史の上の話では、たった1発の爆弾のお話です。
死んだのは14万人です。
でも、14万人、という人はいません。
14万人のひとりひとりに命があり、人生があり家族がありました。
一般市民の目線からしたら、
そんなもんたまったもんじゃないですよ。
風化でしょうか。
でも、桶狭間でも関ヶ原でもなく、
私の父の時代の話です。
世の中、とかく、「戦争は絶対だめ、平和が一番」
という風潮もありますが、
戦争にだって、ルールが設けられています。
戦時国際法と呼ばれるものとしてハーグ陸戦法規やジュネーヴ条約などがあり、
代表的なルールとして以下の8つがあります
(条約締結国だけに適用されるものもあります。)。
⑴ 軍事目標以外への攻撃禁止(降伏者、負傷者、民間人等の攻撃禁止)
⑵ 休戦旗を揚げながら戦闘する行為
⑶ 遭難信号を不正に発信する行為
⑶ 赤十字旗を揚げながらの軍事行動
⑷ 軍事的必要性を超える無差別な破壊・殺戮
⑸ 捕虜虐待の禁止
⑹ 対人地雷使用の制限
⑺ 化学生物兵器使用の制限
⑻ 開戦に先立つ宣戦布告義務民間人への爆撃は戦争でだって許されるものではないんです。
よく、日本が停戦に応じなかったから原爆を落とすことで
無益な戦争を終結できた、と言われますが、
原爆が戦争の終結を早めた訳でないという説が近年有力になってきています。
そういう話はさておき、父は原爆投下の後、
友達を探しに爆心地に入りました。
祖父も爆心地に入り、遺体を埋葬するお手伝いをしたと聞きます。
そして、その時の話は、父は生涯、一言も口にすること無く
この世を去りました。
何が正義なのか私にはわからない。
正義を振りかざすために、広島で20万人、長崎で14万人の人が、
殺戮されなければならなかったのか。
先日、映画で「この世界の片隅に」が大ヒットして、
いろんな人が泣いた感動したと言ってました。
私も映画化される前に原作は読んでいたのですが、
日本中が感動の嵐で包まれる中、
なんとなく白けた気持ちになっていました。
それって、ブームになってしまって、いいのか?と。
原爆投下以降、父はずっと生きていました。
原爆投下以降、背中にケロイドを背負って苦しんでる人はずっと生きていました。
原爆投下以降、未だに亡くした家族について涙する人はずっと生きていました。
映画が忘れられ、次のヒット作に世間が胸踊らせている時も、
心に身体に傷を追った人たちは、ずっと生きていくのです。
戦争でもなく、ましてや正義でもない、
世界でも稀に見る大虐殺を受けた日本。
それを某国のようにお金目当てで騒ぎ立てることを良しとはしません。
でも、自国の人たちが忘れ去るには、
ちょっと早すぎはしないでしょうか。
そして、日本が立ち直って、豊かになった今、
世界に向けてその悲しみや虚しさを発信しなければ、
亡くなった人たちは犬死ではないでしょうか。
大国の顔色を伺って、右に左に風を見ることは致し方ないとしても、
ここは絶対に譲れない、と、自国の立ち位置を保つ必要が
あるのではないでしょうか。
人は二度死ぬと言われています。
一つは、肉体が滅びる時。
一つは、人々の記憶から忘れ去られる時。
私は、父の愛した街の人達を、
二度殺すことはしたくないと思うのです。
また、そうした綺麗事を言っておきながら、
父自身の最後は魂を込めて自宅で看取りをして悔いはないけれど、
父の受けた仕打ちに対し、平和運動など何の参加もせず、
漫然と生きてしまった事には、
未だに悔いが残るのです。
もちろん、完全思考停止の「戦争絶対反対」的な運動に参加する
ことは死んでもありません。
でも、私自身も、あまりにも無知であります。
毎年、この日にサイレンを聞きながら、自分の愚かさと
父の無念さを思って涙が出ます。
長崎の原爆、というのは、もはや教科書の1ページなのかもしれません。
でも、同時に、私の父があの日、友達を探して、
街を彷徨って、地獄のような風景を見た、
ということは、なんとなく思い出して欲しいと思います。
父の名前は記念碑の下の原爆戦没者名簿のマイクロフィルムに刻まれて、
保管されています。
原爆資料館も是非訪れてください。
貴重な体験者の談話のフィルムを熱心に外国人の方が鑑賞しています。
オバマ元大統領の折り鶴がなくたって、
是非、自分の国に起こった出来事を知ってください。
正直なところ、近年、長崎の原爆資料館は、
悲惨な展示物が少なくなり、
やれ何キロとかやれエネルギーを数字で示すととか、
データ的な展示に変わってきています。
そして、正直なところ、
そんな数字やデータに人の無念が、苦しさが、残酷さが
どれだけ示されるんだ、馬鹿野郎!
と思うところもあります。
毎年、こうした思いを自分でもウザいなと思いながらも、
書くことも自分にしかできないことかもしれないと
書いています。
読んでいただきありがとうございます。
尚、私にはアメリカにも友人はいますが、そのルーツに関して
繰り言を言うつもりではありません。
むしろ、そうした悲惨な歴史を共有したことにより、
今後はそうしたことがないよう、今後は互いを尊重していきたいと思います。
良いも悪いもない、ただ、あった、ということなのです。
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コメント
コメント一覧 (2)
私には、亡くなった方の無念さ、そしてその後を生きた人たちの想いを想像するだけしか出来ません。
日本人として忘れてはいけないことですね。
コメントありがとうございます。
最近は大きな災害が多いので昔のことまで思いを馳せる余裕がない時代になりましたが、当事者がいる家庭としては、寂しかったり不安であったりします。
唯一の被爆国として、私達が学んで行くべきことはまだまだありますね。