介護施設で働いているびょうです。

今日、10月22日は父の命日です。

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父は会社を経営していたこともあり、子供の頃からほとんど

家にいることがなく、

幼少の私は近所に住んでいた母の弟のことを父親と思っていました。

その頃の思い出は、

小さな団地のダイニングの板張りに新聞紙を敷いて

その上でご飯を食べていたこと。

経営が軌道に乗るまでは本当に生活が大変だったようで、

私の七五三のときの写真で持っている千歳飴は

近所の人に借りたものでした。

寡黙で仕事一徹、父とは一緒のうちでほとんど話しませんでした。

両親がいるのに私の記憶では母子家庭のようでした。

両親の離婚をきっかけに大学を中退し、

その後、両親とはほとんど接点のない人生を歩みました。

その後、母の病気の為に両親は復縁しましたが、

私はあまり家に寄り付きませんでした。

離婚してからの極貧生活も精神薬と食事代わりの砂糖水で

一人で乗り切りました。 

そんな中、連絡があり、

父に癌が見つかり余命半年、と言われました。

私は母の面倒を見なくてはならないので、

実家(と言っても両親が賃貸していた一軒家で私に縁はありません)

に帰りました。

それまでに持っていた家財道具はほとんど全部、

ひとりで壊して処分して、

当時原付バイクしか持ってなかったので、

少しずつ大切なものを原付バイクで移動させながら。


抗がん剤を打ちながら、父は剪定などの力仕事をこなし

たまたま薬が合ったようで、

そこから5年、生きました。

途中で、一軒家での生活が難しくなったのもあり

今のマンションに三人で移り住んだり。

それでも父は滅多に話さないし、

他人が家に住んでいるような変な感じでした。

ただ、一軒家からマンションに移る少し前に

レンガで竈を作って焼き芋をしてくれた父。

その焼き芋が輝くばかりにきれいでとても美味しかったのが

今は取り壊されて何もなくなってしまった家の一番楽しい思い出。


マンションに移り、病気が進行して、

そんな中、ある日、父は自分で車を運転して、知り合いの自動車工場で

その車を買い取ってもらい、ひとりでタクシーで帰ってきました。

いろいろ考えていたのでしょう、

その潔さは驚くばかりです。

自分の持ち物も、あらかた捨ててしまっていました。


だんだん、坂道を転げ落ちるように

体調が悪くなり、父の入院生活が始まるのですが、

その時の病院の対応がとても悪く、

紙おむつが足りなくなったからと看護助手の方が

父に強く文句を言っていたとか、

点滴の針が上手く入らず、なんだかんだで

3時間も父が耐えないといけなかったとか、

大部屋の同室の方が教えてくれました。

若い人は上手く別部署の人に点滴をお願いしたりしていましたが

ノウハウのない高齢の父は本当にひどい目にあったようです。

また、そろそろ終末期に入るので

緩和ケアに映るように病院からせっつかれていたのですが、

まだ当時は緩和ケアが今よりもずっと少なく、

面談に行っても待機が長く、

また緩和ケアの病棟ではちょっと話しただけでも怒られるほど

静まり返っていて、本当に死ぬのを待っている、という感じで

どうしても申し込む気になれなかった。

そんな時、家族で相談して、

家に連れて帰ろう、

と介護タクシーで父を家に連れて帰ったのです。

当時のケアマネさんが熱心な方というのもあり、

たまたま見つかった訪問のドクターがとにかく優しくて

良いご縁に恵まれていたのだと思います。

特に、夜間に父が動き出して大変な時にすぐに来てくださり

父が眠れるまで懸命にお世話をしてくれたり、

ナースコール代わりに携帯で別室にいる私を24時間呼びつける

父の世話でノイローゼ気味になっていた私をケアしてくれた

訪問看護ステーションの方々には感謝していたし、

感動を覚えたほどです。

最後の方は、家に訪問のナースさんが来ると涙が出るほどで

いつもハグして支えてもらいました。

父の清拭の方法やおむつの付け方、

排泄物の処理の仕方や

痰の吸引の方法などこの時にナースさんに教わったのです。

自分で手袋を買ってきて工夫したり。

この頃は自分が介護職に就くなんて全く考えてませんでした。

ただ、自分も看護師になりたいなあ、

でも看護師には学校も必要だし、生まれ変わってからだなあ

なんて考えていたのです。

その後も、痛み止めの麻薬のせん妄で

私達家族のことがわからなくなった父と

赤の他人として夜な夜な、いろいろと話しました。

親戚の名前を言って会いたいか尋ね、

唯一会いたいと言った父の弟に電話をして話してもらったり。

父が泣いたのを見たのは

一生のうちであの時だけでした。

そして父とあんなに話したのもあの時だけでした。

その後、食事量が減りカロリーゼリーだけでいいと

ドクターに言われたときも、

味覚が残っているのであれば、と料理を作り続けました。

とろみの存在もその頃に知りました。


父の誕生日は10月20日。 

もう、そろそろお別れと言われていて、

状態から行くと、おそらく誕生日が命日になるだろう

と言われていたのですが、

その日は私は遠方から来る知人たちと一緒に

ライブに行く予定にしていました。

岡山から車で駆けつける友達などみんな楽しみにしていて

私もとても楽しみにしていました。

父に

「お父さん、ごめんね、どうしてもでかけたいから

 もう1日でいいから、頑張ってくれんね」

ととてつもない我儘を言って出掛けました。

母には

「もしも今夜父になにかあっても電話しないで。

 私が家に着くまで教えないで」

と言い残して、申し訳ないけれど

その日は楽しく過ごさせてもらいました。

それでも許される、と思うほど、

母も姉も父の介護には関わらず、

汚い仕事はひとりで抱えてやってきたんです、私。

そして、父は約束を守ってくれて

10月22日の午後10時頃、旅立ちました。

私はまだ介護職ではなかったので、

脈もわからない、

ただ、口に手を当てて、

息をしてない、というのを確認して、ドクターに連絡したのです。

その日は酸素吸入器も来ていて、

私が初めてパルスオキシメーターを業者さんに借りて使ってみた日です。

当時はそれが何なのかわかりませんでしたが、

今は母のサーチをいつも測るのでマイパルスオキシメーターが

バッグに入っています。


そして、ドクターが来て死亡を確認してくださり、

ドクターがエンジェルケアをしてくださいました。

そんな事は滅多にないことなのでナースの方々m

驚いていました。

父はドクターが大好きで、いつも気を使っていて、

父が大切にしていたものをドクターに貰って欲しいと

言っていたので、お渡ししました。

忙しい中、そんなことまでしてくださり、

泣いてくださったのは本当に感謝です。


この時に、夜中に走り回り人を助ける凄い人たちがいる、

ということを知り、

また、身体にまつわる汚物に対して

自分が耐性を持っていることを知ったことが、

後に私が介護職に就くきっかけになったんです。


この前、街でワンコインで手相占いしてもらった時に

「今の仕事は家業を継ぎましたか?

 家族がもたらした仕事と出ていますよ」

と言われて、びっくりしました。

それはこういう経緯で父がくれた仕事だからです。

父が居なかったら、私は今の仕事に就いてなかったと思います。

せっかく父に貰った仕事なので、

よほどの事情がない限りは

なんとか続けて行こうと思います。

仕事はキツイけど、夜勤という過酷な一面もあるけれど

沢山のお給料を貰って母に楽しんで貰っています。


もう亡くなって6年だけど、

改めて、

お父さん、ありがとう。


でも、

お母さんはまだ一緒に楽しむと言っているから

まだお迎えは来なくてもいいです。

父に優しくできなかったぶん、

仕事で利用者さんに優しくして行こうと思ってます。


ふたりをまだまだ見守っていてね。




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